昭和43年10月6日 夜の御理解●●●●
今日、飯塚の安藤さん所の、御霊さんの立ち日だからと言うので、前々からお願いしてあった。まあ、簡単なお祭りをしてくれということであった。式年祭と言うわけじゃない。お立ち日なんですね。あちらはもう、何月おきにか、あちらの方の御霊さん達の、そういう立ち日には必ずそうしておる。ちょっといろいろ、もう準備をされて、御霊さんのお祭りが、わざわざここへ来てあるんです。
親戚があの、伊万里の方、飯塚の方ですから、あっちこっちから出てきなさらないかん。今日もやはりあの、ご主人の立ち日だと言うて、伊万里の方から娘さん達が、それから飯塚の方からご自分がやって見えて、そしてここで、時間を示し合わせて、ここでちょうど3時からだったでしょうか。お祭りさしてもらいました。
その別にお祭りと言うわけじゃないですから、私も別に装束替えるわけじゃなしに、別に典楽が入るわけでもない、(会費?)があるわけでもないけれども、後それぞれ、こうちょっとした、お供え物の準備なんかをしてもらってさしてもらったんです。けれども、やはりこの肉親の情。この細やかな、いわゆるお祭りです。いつの場合もそれを感じるのですけれども。ほんとにあの、御霊様が喜んでござると言うのじゃなくて、ほんとに、御霊様の喜びだけではなくて、神様の喜びをいつも感じ取らせて頂くようなお祭りなんですね。
信心とは、私はあの、御霊事に限らず、御霊が喜ぶだけではなくて、神様も喜んで下さるというものがなからなきゃいかない。私達日常の生活の事でもそうです。ね。人が喜ぶと言うだけじゃなくて、その人の喜ぶと言う親切なら親切が、そのまま神様も喜んで下さるだろうと言う、それに繋がらなければ、それはダメだとこう思うんですね。
あのう、御神前にやらせて頂いたらね、まあ(半ズボン?)のようなお知らせを次々頂いたんですけれども。ラムネと言うね、今はあんまり、どこに見かけませんけど。ラムネと言うね、サイダーのようなね。あれはあの、こう上にレッテルが上の方へこう貼ってあるでしょう。あのレッテルを取らずに、上からブスンとこう、落としたようなところを頂く。ね。
ほんでそれからあの、次には、●トマトが、こう三宝1台、それから卵、生卵が三宝1台頂いた。もうそれから、いろいろヒントを与えて下さって、あの、一つの御理解を下さったわけですけれどね。
例えばあの、ラムネのお知らせはどういう事かと私は思うと。結局、上の方をこう突き破ってある。破って、(?)なら紙をこう取って、こう栓抜きで抜くわけですけれども、このレッテルの上から、こう取る。いわゆる、神を破って、天を落としてあるわけですね。
ですからあの、ラムネって言うのはサイダーと同いで、のどがスキッとするからね。あの胸が下がるような物でございましょう。ですからこれは、例えばあの、よく皆さんの家でご芳意(ほうい)でなされますと、それが賑やかにできますと、御霊様も仏様も喜んでござるだろう、とこういうのは、ただ自分達だけが、ね、言わば自己満足しておるだけなんです。ね。
御霊様喜びござるやら、神様が喜びござるやら全然分からないような、お祭りではなくてですね。ただ自分達がブスッと言ったようなもんじゃなくて、それこそラムネが血にも肉にも、栄養にならないようにですね、そういうような、私はあの、日々に、信心生活と言うても、いかに信心生活しておると言うても、信心ができておると言うてもです。ね。そういう程度の日々が繰り返されるんではダメだ、とこう思うんです。ね。
その日々が、私はやはり、それが血になり肉になり、そして、自分もドシッと来るようなですかね。自分もスキッとするような、「はあ、おかげ頂いて良かった」と言うような、やはりおかげでなからなきゃいけない。
私はあの、生卵のお知らせは、あのもうそのまま元気が出る、と言ったような感じなんです。ね。それからあの、トマトは、あれは、同じ栄養化があるそうですね、卵1個とトマト1個と言うのは、栄養化と言うのはほとんど変わらない。けどもこれは、いつ血になったやら肉になったやら分からないようにしていく。ですから、この2つの物が信心になからなきゃいけない。ね。
やはり、日々もう有り難い。その有り難いというものが、溜まり溜まって血になり肉になっていくようなおかげでなかにゃいけない。ただ、目先にパッとおかげを頂いて、(ベスッ?)とくるようなおかげだけで、止まっておっちゃならないということなんです。
最後にはあの、●三味線のね、もう、こう、調子が合わせて、そこに立て掛けてあるという感じですね。もうそれは、私は感じられるんですから、この三味線は調子が合った三味線だなて言うように。ね。そういうところを頂いた。ね。
例えば、伊万里の方から娘さんが出て来た。こちらの方から、飯塚の方からお母さんが付いて来ておる。これに神様のお許しを頂いて、御霊さんが(賛者がいっぱいになって、?)こう何とはなしに、喜び合えれると言うか、いわゆる調子の合った一つのリズムがそこから流れてくる。ね。それでいて始めて、はあ、御霊様お喜び頂いたであろうと思われ、自分達も御霊事をさして頂いた喜びと言うのがある。そういう調子の取れたもの。そういうようなまあ、お祭りでした。昨日の気持ちの良いお祭りだったんです。ね。それが、御霊様のお祭りだけのこっちゃない、お互いの日々の生活がです、そういうようにあらなければいけないということ。ね。
ただ自分が商売が繁盛しておる。神様にお願いをさして頂いておる。商売が繁盛しよる。と言うだけではなくてですだよね、その繁盛がやはり、神様の喜びに、ね、繋がるような繁盛。ね。
それは例えば、商売が繁盛する、神様にお礼を申し上げる。お礼のお供えをする。それで神様との繋がりができると言ったようなもんじゃない。ね。根本的に、例えば、神様が喜んで下さるような、やはりお商売なんです。なるほど、信心さして頂く者が、ならそうあらなければならない事を、とそうあらして頂いておるだけのこと。信心さして頂くようになって、それができるようになること。ね。
今日、朝の御祈念の後に、高橋さんが、今度、寿司の展示会のような事が(たまや?)であるんです。もう2、3年前一遍、その、開かれた。そん時には、1人前が150円であった。値段もそれからいろんな物価が上がっとるから、まあ200円ぐらいにするのは当然である。で高橋さんは、まあ200円ぐらいに、とこう思うておった。
ところが、まあいうならば、あれは一つの宣伝のようなものだから、ね、2、3年前も150円だったけれども、今度も200円なんかにせずに、150円のせよとお父さんが言われた。だからどうさして頂いたならよかろうか、とこう言うのである。
それはもう当然、物価も上がっとるから、200円でもよかろうごたとあるけれども、それはやはり、お父さんの気分に沿わない事になる。そこにその、お父さんの気分に沿うと言うのではなくて、高橋さん。そこんところをひとつ信心でやり抜かれるといいですね。人が10銭で売る物は8銭で売れと言うのが、お道の信心の生き方なんだから、ね、そこを芯に、確かに物価も上がってるけれども、3年前と同じにお勤めさしてもらえるということ。ね。
そうすると、神様のお喜び頂けれるだけではなくて、お父さんの心にも「俺の言う事聞いてくれた」ということになって、(おかげ頂けない。?)そこにはです、ね、目先は2銭損のようであっても、数が余計売れるから同じだと言う、そのおかげは、高橋さんも頂かれる。ね。そういうような、例えば、おかげを頂かせてもらうということ。
それはひとつの割り切った考え方ですね。もうそれは、200円でもいいです。お父さんが言いござっても、そら200円で売っても良かろう。けども、それは、ただおかげを受けるというだけのこと。ね。3本の糸が調子が合わないでしょう、それでは。ね。だから、お父さんの言われる通りに、の気持ちで、まあ宣伝の意味もあって、まあ3年前も150円だったけれども、今度も150円と。と言うのでは、そこを高橋さんはほんなら、信心でやり抜かれようというわけなんです。ね。
神様がああおっしゃって下さるから、ね、信心で商売さして頂くなら、こうなからなければならん、と言うので150円にされる。そこには、お父さんの顔も立ち、神様も喜んで下さり、ね、目先は50銭、50円損のようであるけれども、数が売れるから同いだと言うようなおかげが、そこに頂けて始めて、ね、三拍子揃ったおかげになって行くと言うのである。ね。そういう、私は、おかげを頂かせてもらわないけん。ね。
ただ、そのラムネ、紙を破ると言うかね、上のレッテルを、その、(剥がんなり上から?)、こう栓を抜いて飲んでも、それは変わりはないけれども、それは、ブスッと言うだけ。血にも肉にもならない。
この前私、その事を思わせてもらいよったら、あの、●「杉」と言う字と「松」と言う字を頂くんですよ。まあその杉と言う漢字が、あの、私の、ね、自分の家のといったような、この( ? )感じるんですね。
だから、自分のおかげを受けるということは、おかげを受けてもそれは、結果は杉のようなものである。ね。けれども、その願いの筋と言うものがです、まあ本筋になってくると言うかね。
たとえて言うならば、同じ一生懸命働くでも、ね、自分の事に一生懸命働いて、それも信心の修行だからと、家業の行だからと言うて一生懸命働いて、それなら、どこまでも杉の木ぐらいのもんだ。
けれどもそれを、こと人の事、こと神様の事、こと教会の事いわゆる、自分じゃない公のこと。ね。公のことに自分の、例えば、為される事が行じられる。奉仕されるいわゆる。ね。そうすると、これは木偏に「公」と言う字、ね、松の木。
今日はあの、ここの企画の方達が、その菊栄会の方達ばっかりでしょうが。●「松風」ということと「菊薫」ということを繰り返し繰り返し頂くんですけれども。やはりあの、「松風」と言うのも、これはあの、他の木には風は付きませんね。「梅風」とも言わなければ「杉風」とも言わない。「楠風」とも言わない。やっぱ松の木だけに、松風を付ける。ね。松風。ね。
松風が吹きまくるようなおかげを頂いておるのが、現在、合楽の状態ではなかろうかと。ね。そういう例えば、私どもがおかげを頂かしてもらえるのに、その松風に便乗できれる状態下にあってです、ここに、結局薫ような信心がひとつ為されて行くところからです、ね、私は、神様も喜んで下さり。ね。自分も立ち行き。ね。
例えば、なら高橋さんのことで言うならば、ね、お父さんの顔も立ち、神様も喜んで下さり、自分も立つ。ね。安藤さんのことで言うならばです。ね。(世に賛者一体、?)伊万里の娘も飯塚の母親も、そして、御霊様も、3本の糸の調子が合ったように、ね、いよいよそこから、調子と言うかリズムと言うものが流れて来るようなおかげになってくる。
ただ自分よがりにです、ね、ラムネのレッテルも取らずに、ポスンと落としといて何だのでは、それはブスッと言うだけ。ね。自分だけがおかげを頂いておるようなもんだけれども、それはラムネと同じで、栄養にも血にも肉にもならない。そういう生き方とか、そういう生き方、おかげではねつまらないでしょう。
自分が為しておる事がです、神様が喜んで下さることだ、と確信できれる。ね。自分が思うておる事は、神様も喜んで下さる。自分が今行じておる事は、直接ね、卵のように、今元気が出るものであると同時に、トマトのようにです、ね、いつの間にかこれが、血になり肉になるということを確信を持てれるような、日々でなからなければ、そういう信心生活でなからなければ、馬鹿らしいです。ね。
そこで私は思うですね、その松の木から、気を心を公に使うと。ね。松風の音に便乗してのおかげ、信心であり御用である。と言うような、私は、おかげを頂くということ。ね。
自分の事と下り坂は、急がんもんじゃなかということ。ね。それがこと、例えば教会の事、ね、神様の事であるとすると、思うておるけれども、その、自分の事のようにはなかなかいかん。これではもう値打ちはなか。自分の事と下り坂を下るものはないと言うくらい、こと神様事であるなら、こと教会の事であるならばです、自分のものを捨て置いてでも、それが、それこそ( ? )下れるくらいの、私は、心の状態をもってですね、言うならば、松と( ? )自分の事としての、私は、御用ができるならばです、ね、おかげを頂けるんじゃないだろうかとこう思う。ね。
それをなかなかですね、こう、・・・・(途中切れ)
明渡 孝